第1巻第1章
3. 体験としての音楽
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田中正平は哥沢の「秋の夜は」を採譜するにあたって、うたのタクトを三味線のタクトから独立させて、譜1のように書いた。
これらのことを証明するいろいろな材料を掲げることができるが、中でも長唄のうたうたいが、三味線の手(旋律)など、知らない方がむしろ唄が上手にうたえると思っているという事実は、われわれにとってもっとも意外であると同時に、もっとも有効な例である。
うた沢(歌沢、哥沢)
うた沢(うたざわ)は、端唄から派生した江戸後期の短い歌謡。
創始は歌沢笹丸(うたざわ ささまる、1797年 - 1857年〈本名:笹本彦太郎〉)。本所割下水に住む旗本の隠居で、畳屋の寅・ご家人の柴田金・仕事師の茂兵衛・火消しの音・稲荷の滝・魚屋の定などの同好者を集めて好きな端唄を聞かせていた[1]。しかし端唄は聞かせどころがなく余りにあっさりとしていたところから工夫を加え、「歌沢節」と名づけ、自身は「歌沢笹丸」と名乗った。1857年(安政4年)6月、官に乞うて嵯峨御所より歌沢大和大掾を受領する[2]。
笹丸歿後の翌年、畳屋の寅が歌沢寅右衛門と名乗り、歌沢初代の家元となる[2]。
その4年後にご家人の柴田金が哥沢の初代家元となり、芝金と名乗った[3]。(これはご家人であった畳屋出身の家元の傘下に入るのを潔しとしなかったためと言われている)。
いずれにせよ、発生は嘉永年間以後とされ、歌沢(寅派)・哥沢(芝派・哥沢芝金)を名乗る両派が生まれたので、共通の「うた沢」と表記されるようになり、今日に至っている。
うた沢は、端唄の平易さに飽き足らず、さらに洗練された滋味を加え、とりわけ一中節の語りの要素にのっとった演奏法によって、三味線音楽の唄もののなかで技巧的なさびのある歌い方に一段とくふうを凝らした。両派の相違は、寅派が節こまやかに間がゆったりとしているのに対して、芝派はさらりとした唄の運びにはでさがあるといわれている。
[林喜代弘]
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譜2は地唄の「雪」の中にあるフィグールであるが、もしわれわれに何の予備知識もなかったら、この合の手が他の曲(たとえば「綱館」や「紀文大尽」)の中に現れても、別に大して注意を払わないだろう[註20]。ところが邦楽をよく知っている人は、この旋律型によって、「雪」とか「寒い冬」の想念を心に持ち、あたかもベルリオーズの固定楽想や、リスト、ワグナーの指導動機と同様の、文芸的内容と結合されたメロディーとして受けとるのである。
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一般に近世邦楽の作曲技法というものは、かならず音楽をまず一応文芸的内容とおき換えて、従来慣用語になっている豊富なレパートリーの中から、その文芸的内容の象徴として適合するいくつかの旋律型を選びだし、それらを平面的につなぎ合わせるということが基本になっている。